今だ乗ったことのなかった隅田川の水上バスに乗ってみました。
まずはスカイツリーの良く見える浅草、吾妻橋近くの乗り場から出発!
隅田川に架かる多くの橋にはそれぞれ歴史があり、多くのドラマが有ります。
そんなことを思いを馳せる東京湾へと向かいます。
ただ、船上からは写真がうまく撮れなかったため、一部河沿いのテラスより撮影しています。
[吾妻橋]
創架は1774年(安永3年)10月17日のことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したものです。
長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。1786年(天明6年)7月18日の洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後幾度かの架け替えが行われたようです。
[駒形橋]
駒形橋(こまがたばし)は、1927年(昭和2年)に竣工した隅田川にかかる橋で、東京都道463号上野月島線(浅草通り)を通す。西岸は台東区雷門二丁目、および駒形二丁目を分かち、東岸は墨田区東駒形一丁目と吾妻橋一丁目を分かつ。橋名は橋の西詰にある「駒形堂」に因む。
関東大震災後の復興計画により現在の橋がはじめて架橋された。それまでは「駒形の渡し」があった場所。
昭和になって出来た橋なので、変わっていませんね。
[厩橋]
西岸は台東区蔵前二丁目、および駒形二丁目を分かち、東岸は墨田区本所一丁目。橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった)」にちなみ、また橋全体に馬を連想させるレリーフなどが施されている。
もともと元禄年間ごろから続いていた「御厩の渡し」のあった場所です。
1872年(明治5年)に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があった。以前から転覆事故が多く「三途の渡し」と揶揄されていたこともあり、民間の手により架橋されたそうです。
昔は木製だったそうです。
[蔵前橋]
蔵前橋(くらまえばし)は、隅田川にかかる橋で、東京都道315号御徒町小岩線(蔵前橋通り)を通す。西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横網一丁目。橋名は「蔵前通り」にちなみ、また橋全体が稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されています。1954年(昭和29年)9月~1984年(昭和59年)12月まで東詰に蔵前国技館があり、高欄には力士などのレリーフが施されています。
関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋された。それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった場所だそうです。
この橋も昭和になってから架かったものです。
[蔵前専用橋]
人が行き来出来る橋ではないですが、せっかく撮ったので。。。
蔵前専用橋(くらまえせんようきょう)は、隅田川にかかる橋、NTT東日本蔵前通信ビルと対岸を結ぶ。西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横網一丁目。名称は「NTT蔵前専用橋」とも。当初は旧電電公社時代に作られたこともあり、「電電蔵前専用橋」とも呼ばれているそうです。
日本で初めての洞道(通信線トンネル)専用橋で、水道橋も兼ねる。特徴として洞道内部の夏期の高温時対策のために換気用の窓が設置されている。橋上には立ち入りすることは出来ません。
[総武線隅田川橋梁]
総武線隅田川橋梁(そうぶせんすみだがわきょうりょう)は、隅田川に架かる鉄道橋で、東日本旅客鉄道総武本線の支線を通しています。
本橋は総武本線を両国駅から御茶ノ水駅まで延長するために隅田川に架けたられた橋であり、両国駅と浅草橋駅の間に位します。 上部構造は3径間で隅田川を渡り、連続プレートガーダーのうち側径間(1径間目・3径間目)にヒンジを設けたゲルバー桁を基本としている。さらに、中央径間にはアーチ部材を組み合わせたランガー桁を採用し、本橋の外観上の特徴となっています。ランガー桁は、桁とアーチの双方で荷重を支える補剛アーチ形式の一つで、日本では本橋に初めて採用されたそうです。
[両国橋]
両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)で、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていました。しかし西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となったそうです。位置は現在よりも下流側であったらしい。
江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。
と、今日は両国橋まで。
この先、下流は私にとっても思い出深い地域となります。
次回続きをアップしたいと思います。
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